講話集3
学長講話(3)
「オリンピックの聖火に思う」1964(昭和39)年10月14日
まず諸君にこういう報告をしようと思う。太田先生は文部省の図書館短大の教授なんですが、私の方を手伝ってくださっていたけれども、今度本職の図書館短大に専心されることになって、今度町澤先生が学生部長をされることになったということをご報告いたします。町澤先生は一高の卒業で、京都で、私の教室で哲学を専攻されて、また物理学を後から専攻されて、もと一高は理科だったために理科に興味があって、物理を専攻されて、もっぱら数学を研究しておられる非常に温厚な学者です。今度私の頼みに応じて、学生部長を引き受けられて、諸君の親切な相談相手になると思いますから、諸君は何でも町澤先生にこれから相談をされたらよいと思う。町澤先生です(拍手)。
今日は、こういうことを諸君にお話ししてみようかと思うんです。きのうの朝日新聞にこういう投書があった。諸君はお読みになったかもしれないが、ものの考え方を示す一つの例になると思いますから、その投書を私はここで読んで諸君にお話をしてみようと思うんです。その投書はこういう投書ですが、10月13日の朝日新聞です。
その投書に「認めよう、五輪の素朴な意義」というので、東京の中安正之という23歳の学生の投書なんです。これを読んで、私は非常におもしろいと思ったんです。少し長いけれども、みんな読んでみると「紫煙を空に吐きながらオリンピック聖火がはるばるアテネからやってきて、国立競技場の聖火台に点火された。通過した沿道を埋めた歓呼は世界の人が平和を讃える声だ。私はこの炎を目の当たりに見て、遠くギリシアの歴史に思いをはせる。そのとき人類の歴史の変転を強烈に感じる。」
その次が問題なんですが「先日の放送で、小田実氏は、こんなことを言っていた。聖火、聖火と言うが、何が聖火なものか。ただの火じゃないか。あんなもの消えればまたマッチでつければいいんだ。また、高橋義孝氏は...」、高橋義孝さんは福岡大学の教授ですが、「高橋義孝氏は新聞紙上で、人より少し速く走ったとか、跳んだとかいって大騒ぎするのは愚の骨項だと言っている。」
つまり小田さんと高橋さんの意見に対して、この23歳の学生はこういう意見を述べています。
「なるほどそう言ってしまえばそれまでだ。しかし我々庶民は両先生のように理性だけでものを考えない。失恋したからと言って泣き、阪神が勝ったからと言って手を叩いて大喜びをする。そんな我々の前に、世界中の人達がやってきて、技を競い合うのだ。大騒ぎするのは当然だ。遠くアテネから来た火だからこそ、これに関心を持ち、運ぶために協力した世界中の人達の繋りを肌で感じるのだ。そして異民族が一堂に会しているのを見て、人間が血を流して戦う醜さを反省するのではないか。島国である我が国の人達が、国際的な空気の中に溶け込んでいくには、またとない機会である。少なくとも私がオリンピックについて大騒ぎをするのは、私の平和を願う強烈なエネルギーの爆発であり、世界を一つに結ぶ道に通じていると確信している。」
こういう投書なんですが、要するにここに2つの考え方が出ているんです。1つは、聖火などといったところでただの火なんだ。たばこの火と同じことだという、消えればまたつければいいんだという、また、人が少しくらい速く走るとか遅く走るとかいうことが何だと。それをおもしろがって騒ぐのは愚の骨頂だと。
それに対して片方の青年は、そうではないんだと。自分らはそういうようにただ理性だけで物を考えているんじゃなくして、失恋すれば泣くし、またある野球団が勝てば、それに拍手を送るというのが自分たちの生活なんだと。だから自分たちは、このオリンピックの聖火というものにも意義を認めているんだと、こういう2つの考え方ですね。
どちらに諸君は賛成なんですか。私が話をする前に、ひとつ諸君の意見を聞いてみたいと思う。もしその両先生のような考えに賛成の方はひとつ手を挙げてみてくれませんか。...お1人ですか。
そうじゃないんだと。やはり自分たちはこういうオリンピックというようなことにもそこに意味を見、そこに感激したりするんだという方に賛成の方は手を挙げてみてくれませんか。...わかりました。
いや、私は、これが本当なら逆さでいいんだと。若い諸君が、何だ、あんなものはつまらないんだというのに対して、歳をとった者が、いやそうじゃないんだ、人間の生きた生活というものはそういうものじゃないんだというのが本来ではないかと思うのに、歳をとった、ことに大学教授とかいう方がこういう論をして、そして若い者からこういう説を聞くというのは非常に不思議だが、しかし今諸君全部が、ほとんど全部がすべて後の考えに賛成だと。私も当然後の考えが良いと思うんです。これを、この人は理性という言葉で言ったけれども、自分たちは理性だけじゃないと言ったけれども、こういう考えは理性でさえもないと思う。ドイツ語で言うなら、フェアシュタント(Verstand 分別、悟性)であって、フェアヌンフト(Vernunft 理性)じゃない。もしこういう考えが本当によいとするならば、例えば自分のお母さんが亡くなったときに何を悲しむんだと。世の中に死なない人は一人でもいるかと。みんな死ぬんだから、死ぬのは当たり前じゃないか。それを何で悲しむんだと。こういう論と同じことだと思うんですね。
だけれども、そういう立場から、純粋な、分別的な立場と言ったらいいんですか、あるいは悟性の立場と言ったらいいんですか、そういう立場、あるいは合理主義の立場と言ってもいい、そういう立場からいえば、宗教とか道徳とかいうようなことはまるで成り立たないと思うんです。
また、ごく卑近なことでも、諸君の中にはそういう人はないと思うけれども、人によれば、自分の親などに対して、何も自分は頼んで産んでもらったんじゃない。親が勝手に産んだんだから、何も自分たちは親に対して愛情を持つことも何も要らないんだと、そういう論にもなってくるとおもうんですね。けれども、そういうことがどんなに間違っているかということは明らかだと思うんです。
そういうわけで、この合理主義というものには限界があるということですね。物を合理的に考えるということはよいことですけれども、それに限界があるということ。人間の生活というものは、そういうふうには全部考えるわけにいかないということです。それを若い諸君がみんな認めて、やはり合理主義には限界があるということを諸君がお認めになったことと思うんですね。それをごく俗な言葉で言えば、そういうの屁理屈と言う。理屈であって、理論じゃない。そういう考えでは人生というものは到底生きていけないんであって、だれでも死ぬに決まっているんだけれども、しかし自分の友達が死んだとか、あるいは自分の肉親のものが亡くなったとかいえば、自分たちは非常にそれに対して悲しむと。悲しんだって何にもならないじゃないかと、こういうことを言うならば、非常に間違っていて、そうじゃない、そういうときには悲しむのが人間性なんです。
もしそういう論からいけば、例えば吉展(よしのぶ)ちゃんなんていう、ああいう男の子が亡くなった。諸君もそうだろうと思うんですが、私などは今でも吉展ちゃんが出てきてくれたらいい。ああいう子供がいなくなって実にかわいそうだと、こういうふうに思うんですが、しかし今言った先生方のような考えからいけば、何も日本で一人の男の子が亡くなったと、それが何だと。4歳の男の子なんていうのは幾らもあるじゃないか。それをみんなが騒いで、「いない、いない」と騒ぐなんてばかげていると、こういう論理になるんじゃないんですか。
要するに、私が諸君に申したいことは、諸君全部が賛成したように、ただの合理主義というものには限界があるということですね。そういう限界を超えて、今のようにオリンピックの聖火はただの火ではないかとか、そういうようなことを言うのは非常に間違っているということを、諸君全部がご承認になったとおりだと思うんですね。ただの火じゃないんです。オリンピッタの火はただの火じゃない。そうじゃなくして、人類全体の協同ということの象徴なんです。
ところで、象徴というものは、ただの物質的なものじゃない。例えば、アメリカならアメリカの旗はただの布だと。それを非常に敬ったり、尊んだりするのは実にばかげているということを言うならば、そういう論は非常に間違っている。そうじゃない、あれはただの布なんだけれども、象徴なんです。アメリカの精神を象徴しているんです。だから我々は旗に対して敬意を表するとか、そういうことになるわけで、日本の国旗にしても、なにも国旗など何だと、こう言うけれども、実際はオリンピックで日本の国旗が上がれば日本人みんながそれに対して非常に感激するというのは、ただのきれじゃないんです。あれは日本という国を象徴しているんです。だから、それに対して自分たちがそういう感情を持っているわけなんです。
要するに、合理主義に限界があるということを諸君がよくひとつお考えになっておくと。そして実際の事実がそういう合理主義の限界というものを示しているというように私は思いましたので、それで今日そのことをお話ししてみたんです。
オリンピックに繋がって、ここに非常に大きな一つの問題があると思うんです。それは、世界が一つになる、そういう気持ちを非常に起こすと思うんです。私は今度は実は開会式にも参りませんでしたが、かつて国体があったときに、私は当時文部省におったんですが、秘書官が私に、国体が名古屋であるので出席して欲しいと言うから、私はどうもああいうものは好きでない。好きでないからと言ったところが、それは大臣の責任なんだから、国体にいかなくちゃならない。で、私は実はいやいや名古屋でやった国体に行ったんですが、そのとき日本中の人が整列をして、日本の各地方からみんな出てきて、そして国体をしたときに、私は非常に全体という感じがしたんです。日本人がここに全体をあらわしておると。全体感というんですかね、そういうものを非常に感じて、自分はこういうものはつまらないと思っていたのが非常に悪かった。こういうところへ来てみると、確かに日本が一体なんだということを強く感ずる、という体験をその時分はしたんです。だから今度のオリンピックの開会式にもし参列していたらば、世界が一つだという感じがしただろうと思うんです。この投書にも言っているように、だれもが世界は一つだという気持ちが平和につながるし、オリンピックの非常に重大な意味だというふうに思うと。そこで世界は一つだということですね。
このごろ一般に世界連邦とか世界国家とかいって世界は一つだという思想が非常に強くなってきておるんですが、しかし我々の理想は、それならば世界が本当に一つになってしまうことか。日本もアメリカもイギリスも、みんな解体しちゃって、そして言葉を一つにして、何か新しい言葉を作って、そして本当に一つになってしまうことか。そういうことは非常な問題だと思うんです。
ところが、今世界で唱えられていることは、世界国家ということを唱えるよりも、世界連邦ということが一般に唱えられていると思うんです。つまり、インターナショナルのことであって、コスモポリタンの話でないのが一般の考え方だと思うんですが、これはどういうように考えたらよいものか、皆さんもよく考えてみていただきたいと思うんです。
私の考えでは、世界が一つということは非常に良いことで、もちろんそういうふうに進んでいろいろな事柄が一つになっていくことは良いけれども、全部国が解体しちまって、そして一つになるということは、私はあり得ないことでもあるし、またあってはいけないことだと思うんです。そうじゃなくて、やはり世界連邦であって、それぞれの国がみんな特色を持って、そして共通な、例えば経済のこととか、あるいは郵便とか、今でも大分一つになってきているけれども、もっと徹底的に一つにするということはあっても、文化というものを徹底的に解消してしまっては、世界文化というものが貧弱になってくると思うんです。全体というものは差別も何もない、そういう一つの抽象的な全体というものは死んだ全体であって、そうじゃなくて、内に差別を含んでいる全体が生きた全体だと思うんです。例えば、私どもの体も一つの全体ですが、それは目とか、耳とか、肺臓とか心臓とか、それぞれ違った働きをするものが中に全体として構成されていて、そしてそれぞれがみんな自分の働きをするというところに本当の生きた全体というものがあると思うんです。世界文化と言っても、無内容な、内容がない世界文化は何にもならないのであって、全体(的)な世界文化と言っても、それは生きた全体でなくちゃならない。それには日本語は日本語ですね、英語は英語、ドイツ語はドイツ語ですね、それぞれの国語が生きていて、そしてそれぞれの文化が独立していて、しかも全体を構成するというところに本当の世界文化というものが成り立ってくると思うんです。
世界と言ってもです、その値打ちはどういう文化を持っているかということだと思うんです。ギリシアは今、昔のままではなくても、ギリシア文化というものは人類ある限り人類に恩恵を与えているものだと思うんです。日本という国も、世界的な立場においていつでも日本というものが生きていて、日本を愛するがゆえに世界を無視するというのではない、世界を尊ぶがゆえに日本を消してしまうというのでもない、その全体の中に日本というものも生きれば、イギリスも生き、ドイツも生き、それぞれの国語が生きた国語として尊重されていくというところに本当の世界文化というものがあると私は思うんです。
例えば手近な話が、人物を考えてみても、本当の世界的な人物というのはアメリカ人だかイギリス人だか、どこの人かわからないようなハイマートロース(heimatlos 流浪の)な、そういう人物が本当の世界的な人物かと言うと決してそうじゃないと思うんです。どこの人間か戸籍のないような人間が世界的な人物かと言うとそうじゃない。福沢諭吉でも内村鑑三でも西田幾多郎でも牧野伸顕でも長岡半太郎でも、そういう世界的な人物というのはみんなすぐれた日本人、実に堂々たる日本人だと思うんです。だから、世界的な人物になろうと思ったら、よい日本人になるということも必要だ。そのよい日本人というのは、決して他国を排斥するとか、排他的な人物じゃないのであって、世界というものをいつも見ていて、しかもその中で自分の特色を出していく、そういう日本人が世界的な日本人と言えると思うんです。
オリンピックということはまことに結構だけれども、なんでも国を世界が一つになっちゃうんだから、自国の特色というもの、自国の個性というものは全てなくなしてしまわなければいかんのだと、そういう考えになるなら非常に間違っている。そうじゃない、総ての国がそれぞれの文化を生かして、そして世界全体というものを構成していくんだ、こういうふうに考えなければならないと思うんです。
今日の話はこれだけにいたします。