講和集5

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第2回入学式式辞

学長講話(6)「夏休み読書のすすめ」1967(昭和42)年7月12日

今年の春、私は健康が十分でなくて、医者から自重するように執拗に言われるものだから、諸君に話をする機会を持つことができなかったけれども、今日幸せに諸君に話をすることができることを非常に喜びとするものであります。体が悪いと言っても大したことじゃない。老人病で血圧が少し高い。しかし今はいいんです。という訳です。

今日は久しぶりに諸君に向かって話をするわけですが、諸君も獨協大学という一つの夢を抱いてこの獨協大学という大学に来て、現実の大学というのはどうも自分が考えていたことには足らないというふうに考える方もたくさんあるだろうと思うが、無理はないと思う。しかし何でも、個人でも、学校でも、団体でも、すべて欠点がないということはないんです、どこでも。

例えばアキレス(Achilles)のような勇者でも、踵にだけは一つ欠点があったですね。そこで殺されちゃう。また、ジークフリート(Siegfried)などというようなニーベルゲン(Das Nibelungenlied)の勇者は大蛇を殺して、その血を浴びて、その血の浴びたところはすべて刀も何も通らない。ところが、そのとき偶然に木の葉が落ちてきて、肩に血ののらないところがあって、そこだけが欠点で、そこを刺されて死んだというような話もあるように、そういう完全のような人でもどこかに欠点があるんだから、まして私どものような2024欧洲杯投注官网_沙巴博彩公司-官网平台に諸君が不満足なことがあっても仕方がないが、しかし個人でもお互いつき合っていくにはよい方を見ていくというのは必要なことであるから、諸君の欠点と思うようなことはどういう方法ででも言ってもらいたい。

諸君は何のためにこの大学へ来たかというならば、諸君は立派な人になろうと思うから来たんだろう。すなわち人間形成のためにこの学校へきたんだろう。人間形成の仕方はいろいろある。けれども、大学の人間形成は学問による人間形成だということはだれも異存はないだろう。すなわち諸君がこの大学に来たのは学問をして、そしてそれによって立派な人間になろう、こういうことだと思うんです。

だから学問をするのについて、どうもこういうことが困るとか、ああいうことが困るということはぜひ言ってもらいたい。例えば教場が騒がしいとか、そういうことは私も非常に気に病んでいることです。しかしこれは、一つは学生諸君の中にそういう人がいるんだから困る。だから、自分らが学問をしていく上において困るということを言ってもらいたい。が、しかしどこまでも自分たちは学問を通じての人間形成のために来ているんだと。もし諸君に(困ることが)あるとすれば、それは学問をやるのにこういうことは困るということでなくちゃいけないと思う。

しかしまた2024欧洲杯投注官网_沙巴博彩公司-官网平台にもよいところはあると思う。私は、諸君の中には2024欧洲杯投注官网_沙巴博彩公司-官网平台に来てコンプレックスを持っている人がいるということを聞いた。コンプレックスを持つことは何もない。学校は、諸君が十分勉強されさえすれば、社会は諸君を歓迎するんです。現には聞いているところでも280社、あるいは300社くらいかもしれませんが、それがここへ人を求めてきている。仮に300社でも、1社が1人ということはないんですから、そういうことを考えれば、諸君がこれから勉強していかれれば立派なところへどこにでも入れると思う。社会は諸君を歓迎している。社会は獨協大学というものを認めている。まだつくって3年です。それで既に300社を超えるところがこの学校を認めて、人をここから求めようとしている。ことに、ほかのところには人を求めないような会社でもここには求めているという例もある。だから諸君は勉強さえされて、そして社会に出て職に就くということになれば、どこの学校を出たなんてことは何もないんです。これからは自分の力次第だということをよく考えて、コンプレックスなんか持つということはおかしな話。人間としてコンプレックスを持つなんてことはないんだ。そういう意味で、諸君に高慢であるということは要求しないけれども。高慢というのは自分の力にないものまであるように思っているのが高慢なんだ。しかし自分の力にあるものを認めないというのは卑屈である。そうじゃない。我々はあるものはある、ないものはない、そういうようにして獨協大学生のプライドを持って生きていかなきゃならないと思う。

休み中も、どうかひとつ諸君が獨協大学生であるということを忘れないでほしいんです。世間には学生としてのあり方には全然そぐわないあり方をしている学生もある。獨協大学の学生は、どうか獨協大学の学生だというそういう一つのプライドをもって、休暇中もやってほしいと思う。

これから休暇になりますが、私は諸君には、できればご郷里へ帰られることを勧めたいと思う。ことに女性の方々は郷里に帰られて、父母のもとに帰られて、そして家のことを手伝ったり、また郷里で勉強することを勧めたいと思う。全部郷里に帰れというわけじゃない。いろいろな学友会の企てもあるでしょうから、それに行かれるのもよいけれども、大体としては、どうか諸君が父母のもとに帰られることを勧めたいと思う。そして父母のおかげで獨協大学のような学校に学ぶことができるんだということをここでまた思い出してもらいたいんです。世間には大学に行きたくても行けない者がどれだけたくさんおるかわからない。諸君はこういう学校で幾らでも勉強できる。学問に注意を向けさえすればどんなにでも勉強できるというところに学べることは非常に幸せなことだということを思って、そして父母に対して感謝するということを考えてほしいと思います。

私は最近東大の時実(利彦)教授から聞いたことですが、時実教授は脳の研究者ですが、脳を遊ばせておくことがよくないんだと。1日脳を遊ばせておけば、それだけ脳は退化する。脳をよくする、頭をよくする道は、頭を鍛えるにありということを話しておられましたが、諸君が暑中じゅうの一月、仮に何もしないでいたとしたらば頭は弛緩してくると思う。どうか休み中も毎日、朝の涼しいうちに勉強して、頭をいつも鍛えてほしいと思うんです。

私は父母に対して感謝をするということを言いましたが、諸君の中には父母のことなど考えるというのは古い考えだという考えがあるかもしれないけれども、そんなことは決してない。日本は家族主義の国だから父母のことなどを言うけれども、欧米は個人主義だから父母のことなど言わないと、もし言う人があったら、欧米を知らない人の言うことです。ヨーロッパでも、息子が大学へ入ったとか就職したとかいって家を離れるというと、毎週一度くらいお母さんのところへ手紙を出すということはみんながやることです。日本の子供よりもっとやると思うんです。そういうようにして父母を敬うとか父母の親切に感謝するということはなにも古いことでも何でもない。古いとか新しいとかいうことをよく諸君は考えてみたらいいと思う。新しいものがよくて、新しいものができると古いものは要らなくなるというのは自然科学とか、それに基づいているところの物質的文明のことであって、哲学とか宗教とか芸術とか、そういうような文化は古いから悪いということは決してない。

諸君が考えてみても、例えば哲学で言うならば、ドイツで今最も力のある哲学者であるヤスペレス(Karl Jaspers, 1883-1969)が、今の哲学は取り扱う材料は豊富になってきたけれども、しかし哲学的思索ということにおいてプラトン(Platon, 前427-前347)に続く哲学者はないだろうということを言っている。そういうように、哲学などはギリシア哲学よりも今の哲学の方が進んでいるとは必ずしも言えない。芸術でも、ギリシアの彫刻などが今日といえどもまだ非常に尊重されるということはそれを示している。例えばまた文学について、志賀直哉とか谷崎潤一郎というような文豪があらわれてきて、『暗夜行路』とか『細雪』というものを書いたならば、もう『枕草子』とか『源氏物語』は要らなくなってしまうかというと決してそうじゃない。谷崎さんが『源氏物語』の翻訳をしているということでもそれはわかると思う。またべ一トーベン(Ludwig van Beethoven, l770-1827)の音楽は古いからもう要らんということもない。あるいは宗教は、キリスト教とか仏教は古いから、新興宗教じゃなきゃならんということを言う人もいますけれども、しかし一般的じゃない。そのように哲学とか宗教とか芸術とか、そういう狭い意味の文化というものは古いからいけないということはない。道徳というものもそうである。

物質文明においては、例えば自動車ができれば人力車は要らない。私どもの大学生時代にはまだランプだった。石油のランプでもって勉強した。けれども、今日は電灯があればランプなどは要らない。そういうように、物質文明においては新しいものができてくれば古いものはもう要らない。そうして我々は常に物質文明の中に住んでおるから、そういう物質文明の考え方に支配されて、何でも新しいものがよくて古いものはいけないという考えを持っているけれども、それが非常に間違っているということは、今の簡単な例でもわかると思うんです。だから、親に対して感謝の気持ちを持つということは当然のことであって、よく諸君もそれを考えてみることが必要だと思う。それで郷里に帰られたら、父母 のもとで、大学生になったからといってどういうことでも良くなってきたと親が思うように振る舞っていただきたい。

そういうわけで、頭を休めてしまうというと頭が悪くなるからして暑中じゅうも読書をすることはぜひ必要だと思う。どういう書物を読むのがよいかと言えば、皆さんは自分の専門の先生に伺ったらよいけれども、一般的な書物としては、例えば、福沢諭吉の『福翁自伝』とか内村鑑三の『後世への最大遺物』という書物がよいと思います。そのほか、今の人としては小泉信三とか高坂正顕とか高山岩男、そういう諸君の書かれたものは何でもいいんです。もし私の本を読んでくださるならば、『学生に与ふる書』というのを読んでもらいたい。本が安いし、大体私の考えを書いてあります。そういうようにして、毎日決まった時間読書に努めてもらいたいと思う。

父母のことを言ったんですけれども、我々は、自分で自分の体ももちろんですが、精神も自分からつくり出したものじゃない。父母に受けてきた。父母に受けるということは民族に受ける、人類に受ける、そういうようにして、我々が身体及び精神の根源を尋ねるというと、やはりそういう絶対者とか、そういうものにどうしても考えを及ばざるを得ない。そういうものに対して畏敬の念を持つということが人間にとっては非常に必要なことだと思うんです。そういうようにして、諸君はどうか父母に対して尊敬の念を持つとか父母に対して感謝をするということを、この休みにおいて、前からもそうだろうけれども、なお一層そういうことに努めてもらいたいと思うんです。

それから読書のことですが、諸君は何か外国語の書物をこの休み中に読んで、語学の力も同時につけるということも非常によいことだと思う。私などは、暑中というといつも郷里に帰って、私の郷里は相模ですが、相模湖というのをご承知かもしれませんが、その近くですが、涼しいものですから、私は毎夏郷里に帰っていろいろな書物を読んで、暑中というと勉強をし、今でも非常によかったと思っているんです。諸君もどうか暑中じゅう何か書物を持っていって、そしてそれを読まれて、大学の1年のときは何を読んだとか、それが後々までなるというと非常によい思い出になってくると思うんです。

私が高等学校におったときに、私の友達が本郷の古本屋にズーダーマン(Herman Suder-mann, 1857-1928)の『フラウ ゾルゲ(Frau Sorge 憂愁婦人)』という本が出ていると。当時はドイツの本なんて珍しいときであったんです。諸君は名前をもちろん知っておると思いますが、高山樗牛という人があって、『太陽』という雑誌にいつも書いていて、そしてズーダーマンの『Frau Sorge』は非常な傑作だと言ってほめていたんです。その本が出ているというので、友達が教えてくれたから、私もその本を買って、そして郷里へ持って帰って、朝から晩までそれを読んで、割合大きい本ですけれども、読んでしまった。私は戦災などに遇って本をみんな焼いたりしたけれども、幸せにその本は焼かないで、現在でも持っておるんです。そういうような本を読んで、しかしこれは家庭小説で、岩波書店の文庫にも翻訳が出ておりますが、『憂愁夫人』とか言って出ていますが、家庭小説で、おもしろいことはおもしろいけれども、樗牛の言うような傑作かどうかということは非常に疑いますが。そのほか私は、当時ハウプトマン(Gerhart Hauptmann, 1862-1946)が非常にはやった時代で、ハウプトマン『アインザーメ メンシエン(Einsame Menschen 寂しき人々)』などを読んで、そのほかトルストイ(Lev N. Tolstoi, 1828-1910)のドイツ訳とかイプセン(Henrik Ibsen, 1828-1906)のドイツ訳もよく読んだ。私はトルストイの『復活』を読んで非常に感じたことは、その『復活』の中に、愛というものは命令できない。あなたは自分を愛せよと言っても命令できないということを読んで、非常な感銘を受けた。

私が後に京都大学の学生課長をしたときに、中国の学生が20幾人も京都大学にはおったんです。ところが当時は戦争中で、中国の学生が日本に対してどういう考えを持つかということを、一種の探偵みたいにして日本の政府が調べた。そのために、もし密告をするものでもあれば、すぐその学生をやめさすということがあって、中国の留学生たちがみんな戦々恐々としているということだった。そのとき私が中国の留学生を集めて、私は日本の帝国大学の学生課長として、諸君は日本に対して親愛の心を持ってくれることはぜひ希望するけれども、しかし愛は命令できない。諸君に日本を愛せよということを命令するわけにはいかない。だからして、もし諸君のうちに自分の仲間を、彼は日本に対してよい考えを持っていないということを密告するものがあったらば、そういうものは直ちに退学してもらうと私が言ったらば、中国の学生たちが非常に喜んで、安心して日本に留学をしたことがある。私はそんなふうに、子供のころの夏休みに読んだ本からそういう強い印象を受けて、いつまでもそれが自分を指導する原理になったということもあって、夏の読書は非常によいものだと思っているんです。

高等学校をでたときに、これから哲学をやろうと思った。私の先生にどういう書物を読んだらいいかということを聞いた。当時はまだ高等学校に哲学という科目がないから、私などは知ることができない。聞いたところが、先生が、1つはドイッセン(Paul Deussen, 1845-1919)という人の『エレメンテ デア メタ フィジィク(Elemente der Metaphysik)形而上学序説』、もう一っはファルケンベルク(Richard Falckenberg, 1851-1920)とい人の『ゲシィヒテ デア ノイエレン フィロゾフィ(Geschichte der neueren Philosop-hie)近世哲学史』の2つの書物を読んだらいいと言われた。

私はその2冊を買ってきて、そして京都の哲学科へ入ろうと思って京都へ行ったから、京都でそれを読んだ。そのときに非常に一生懸命ファルッケンベルクとドイッセンを読んだ。ドイッセンという人は東洋学なども研究した非常な博学な人ですが、その説は幾らか偏執で、ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788-1860)の学徒で非常に偏しているんです。けれども、そこには形而上学的な情熱というものが感ぜられて、そのとき読んだ本は今でも好きなんです。そのまま持っているんです。また、そういうようにして暑中に読んだ本によって自分がいろいろな感銘を受けたり、またいろいろな知識をもったりしたということを今非常に愉快に思い起こします。

諸君の暑中休暇も迫ってきているから、どうか諸君はこの休みにできるだけ朝のうちなど早く起きて、そして涼しいうちに書物を読むとか、そういうことに努められて、この休みにはどういう書物を読んだということが諸君の記憶に残るようにされることがいいと思うんです。繰り返して言いますけれども、頭は遊ばせておくと悪くなる。頭は使わなくちゃいけない。しかし頭を使うと言っても、諸君の試験勉強のような、一方において身体を駆使して、ろくに寝ないでもってやるということは頭を悪くするもとだけれども、そうじゃない、今は試験勉強じゃないんですから、自由にやれるんですから、そういう境遇においてはできるだけ頭を使った方がいい。そういう意味で、諸君が休みを愉快にやり、そして郷里に帰ってご両親とも親しくして、ご両親が獨協大学へ入ったために前とは違ってきたと言うようになってほしいと思うんです。そして9月には元気にまた学園に帰ってきて、そして何でも私らに言って、親しく学業を修めるということをしてほしいと思うんです。諸君が、もし十分な勉強さえされれば、ただいま申すように、就職先はたくさん来ているんだからして何も心配はない。足りないことは自分たちの力でやって、力さえ持っていれば幾らでも採用してくれるということも郷里に帰ったらご両親に話してもらいたいと思います。そういうようにして、9月には元気よく出てきてもらいたい。私も9月まで静養して、また来て、諸君にお話ししようと思います。

今日はこれまでです。