年譜
天野貞祐博士略年譜(『回想 天野貞祐』より抜粋)
1884年 (明治17) |
9月30日 神奈川県津久井郡鳥屋村(現?相模原市津久井町)に生まれる。父?藤三は八王子の自由民権家の豪農の家から地方豪農?天野家へ養子に入った人で、村長、県会議員、衆議院議員をつとめた政治家であった。天野家の周りには、身内の尾崎行雄、友人の村野常右衛門など、近代日本を代表する傑出した民衆政治家がいた。 |
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1897年 (明治30) |
獨逸学協会学校中学に入学した。父は息子たちを法律家、医者、政治家、学者にしようとして、四男の貞祐をば医者とし、当時、獨逸医学の登龍門であった獨協進学となった。 |
1901年 (明治34) |
全盛期の獨協野球部で活躍したが、足を痛め退部。その後、母と共にチフスにかかり、母を亡くした。失意のうちに中学を退学した。 |
1905年 (明治38) |
この4年間にキリスト者?内村鑑三の『後世への最大遺物』を読み、人間として精神的に立ち直った。獨協中学5年に復学、ドイツ留学から帰国直後の校長?大村仁太郎に出会う。ドイツ語学者?教育家として明治を代表する一人である大村の影響の下で、医師から教育家へと志望を転換した。 |
1906年 (明治39) |
獨協を首席で卒業し、旧制第一高等学校に入学した。九鬼周造(のち京大教授)、岩下壮一(のちカトリック司祭)らと生涯の友情をつちかう。ヒルティ『眠れぬ夜のために』を愛読した。旧制一高卒業後は、カント哲学研究の意欲に燃え、京都帝国大学に進学した。明治45年に京大卒業、大学院に進学した。 |
1913年 (大正2) |
処女論文「カント学者としてのフィヒテ」を発表した。翌年、旧制七校(現?鹿児島大学)にドイツ語教師として就任、カントの翻訳に専念した。 |
1919年 (大正8) |
西田幾多郎の推薦で学習院教授となって上京した。大正12、3年はドイツ、ハイデルベルク大学に留学した。のちの哲学者?三木清、歴史家?羽仁五郎らと同時代人である。 |
1926年 (大正15) |
田辺元の推薦により京都帝国大学助教授となる。 |
1930年 (昭和5) |
カント『純粋理性批判』の訳業がついに完成した。現在は講談社学術文庫に四冊本で収録されている。翌年、京大教授、文学博士となる。学位請求論文「カント『純粋理性批判』の形而上学的性格」(岩波書店)を昭和十年に出版した。本論文は『純粋理性批判について』(講談社学術文庫収録)に復刻されている。 |
1937年 (昭和12) |
『道理の感覚』(岩波書店)を出版した。軍国?好戦の時勢に迎合する学者?マスコミや右翼?軍部から強い反発と強迫を受け、翌年、自発的絶版で落着した。 |
1939年 (昭和14) |
一代の名著『学生に与ふる書』(岩波新書)を刊行した。現在も赤版で入手できる。 |
1944年 (昭和19) |
京大を定年退職後、私学の名門?旧制甲南高校(現?甲南大学)校長となる。 |
1946年 (昭和21) |
旧制一高の校長となる。以後、日本育英会会長、日本学生野球協会会長、国立教育会館館長、中央教育審議会会長、私立自由学園理事長など、日本教育界の名誉ある重責を荷った。 |
1950年 (昭和25) |
第三次吉田内閣の文相に就任した(昭和27年まで)。 |
1952年 (昭和27) |
獨協中学高等学校校長に就任した(昭和45年まで)。 |
1961年 (昭和36) |
文化功労者 |
1964年 (昭和39) |
獨協大学を創立し初代学長に就任した (昭和44年まで)。 |
1973年 (昭和48) |
勲一等旭日大綬章を授与された。また、野球殿堂入りを果した。 |
1980年 (昭和55) |
3月6日、武蔵野市の自邸にて、老衰により逝去した。享年96。従二位の位階を追贈され、銀杯も下賜された。 |
1990年 (平成2) |
夫人タマが歿した。享年102。実家の青木家も八王子の豪農民権家、私立銀行家の家柄であった。天野貞祐夫妻の墓は、恩師?大村仁太郎もねむる雑司ヶ谷墓地と、郷里?鳥屋の天野家菩提寺にある。 |